雑記帳

私の頭と心の中

【M-1GP 2019】上沼さん、おっしゃる通りです。 ”こなす”漫才と、”こなす”演奏

皆さんは、今年のM-1グランプリをご覧になられましたか。いや面白かったですね。

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僕は取り立ててお笑いファンという訳ではなく、年によってM-1は見たり見なかったりなんですが、見るとその後の年末にお笑い熱が高まっちゃうタイプのミーハーです。敗者復活戦の動画を見たり、決勝について色々考察されている記事・ブログを読んだり。

なお、僕が一番好きな芸人はマヂカルラブリーです。最近はボケの野田クリスタルが制作してるアプリゲーをやったり、野田が自作ゲームを実況するyoutubeチャンネルを見るのが趣味です。なので、番組開始直後の敗者復活中継で、野田クリスタルが上裸で「えみちゃん待っててね~!!!!」と今年も叫んでくれた時点でもう満足でした。これさえあればいいM-1、いい年末。野田の魅力について、いつかまとめて書くかもしれません。

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 (↑野田クリスタルyoutubeチャンネルでも特に好きな動画)

 

さて本題。何故M-1についてブログを書いたかというと、今年の放送の中で自分が日頃モヤモヤと思っていた事を言葉にして演者が看破してくれる痛快なシーンがあったから。それは漫才中ではなく審査の時の出来事。出番順で5番手のからし蓮根の漫才が終わり得点が発表された後、真っ先にマイクを振られた審査員の上沼恵美子からし蓮根を褒める中で突然、既に漫才を披露した優勝候補和牛に矛先を向け激しく批判をした。見返すとおおよその内容はこんな感じだ。

からし蓮根は初々しさが良い。それに比べて、私の推していた和牛の漫才は横柄で何も緊張感がなくぞんざいなものをかんじる。皆が頂点を取ろうと必死さを出すのがM-1の良さであり、だからこそ実力があるのに一度準決勝で負けた和牛(※決勝には敗者復活で進出)は、応援していただけに腹が立つ。」

本来はからし蓮根について批評すべき場で、しかもここまでの激しい個人攻撃は異例だと思う。この件について案の定ネットは荒れ、やれ和牛が可哀想だ、いや上沼は正しいと感想・批判が入り乱れた。和牛のフォローをすれば、3年連続でM-1準優勝した実力の確かな漫才師であり、彼らの漫才に見慣れた視聴者としては和牛に求めるハードルが上がってしまっている。加えて、和牛の漫才は緻密に練られたスキのないものであり、それを流暢に淀みなく見せていく展開はともすれば見る側にとっては初々しさとはかけ離れた印象を持ってしまう。しかし、これは和牛の努力・経験の賜物であり、漫才を見ただけで和牛のM-1に対する想いを推し量るというのはそれこそ少々横柄だ。

 

それでも、自分はこの上沼恵美子の発言には胸のすく思いがした。それは、普段のバンドサークルでの活動で似たようなことを何となく感じていたからだ。

人の心を動かすものとは何か。大げさに言えば、見る側の心を動かそうと演者が努力をするという点では漫才とバンドには共通するものがある。それが笑いなのか、心地よさやカッコよさなのか、表現は異なるが。どういった演奏が他人の心をつかむのか、ライブを見たりバンド活動をする中で、僭越ながら自分の中で考えていた。

紛れもなく、一番必要なのは「習熟」、上手くなることであろう。というかこれは前提条件だ。どんなに魅せたいものが演者にあっても、ぐちゃぐちゃな漫才、ぐちゃぐちゃな演奏では伝わらない。上手くなるために練習をする。これは、漫才をする人、音楽をする人なら当然のように通る道である。

しかし、ここで陥ってしまいがちなのが、”上手さ”への依存だ。上手さは、必要条件であって十分条件ではない。上手ければ上手いほど人の心を動かすのかといえば必ずしもそうではないし、上手さはそこそこでも心を動かすステージは確かにある(程度は人によるが)。上手さが全てを解決してくれると信じ練習に励むが、それだけで評価をされるとは限らない。今まで自分はこれをピタッと言葉にすることが出来なかったが、”上手さ”とは別の次元にある「いい演奏」を何度も体感し、その理由を考えていた。

(ここでの演奏とは主に自分の周りのバンドサークルにおける話である。プロの漫才と、アマチュアのバンドを比較してしまって申し訳ないが、あくまでこれは私の備忘録なので。プロの演奏はみな一様に素晴らしく、私が偉そうに言えた話ではない。以下、バンドサークルに絞って話を進めていく。)

 

M-1決勝での、「初出場のからし蓮根が褒められ決勝常連の和牛に物足りなさを感じる」という構図に私は既視感を覚えていた。バンドサークルにおいても、まだ楽器の習熟という点において劣る下級生が(これは例えであり演奏の習熟度と学年は決してイコールではない)、全力をかけて「今、自分は楽しい」ということを演奏で表現する姿に私は心を動かされることがある。一方、楽器の実力が確かである上級生が、何か演奏をする目的意識を失ったような姿でルーティンのようにライブをこなす様子は時々見受けられるが、これは演奏の上手さに「流石だな」と思うことはあっても、何か退屈さを感じる。

繰り返すが、和牛にやる気がなかったと言いたいわけではない。彼らが裏でどんな努力を重ねているか、どんな想いでM-1に臨んでいるか、一視聴者でしかない私が知ったように話すのは傲慢であるし、これだけ毎年結果を残しているコンビなのだから当然M-1に懸けるものも相当なはずだ。これは只の私の好き勝手な感想であり、最終的に言いたいことはあくまでもバンドの話だ。

 

この「慣れ」故の「物足りなさ」の話は、何も他者に対して一方的に批判の目を向けているわけではない。むしろ、自戒の意味が大半だ。昨年、私はあるサークルの最上級生バンドに誘われ、同じメンバーで8か月間演奏をしていた。そのバンドは様々な大学から人の集まる”しっかりした”バンドであり、バンドにありがちな意思決定の方法やらモチベの違いによるストレスを感じることもなく、楽しく演奏をさせて頂いていた。最初こそ初対面の方も多く緊張していたが、次第にそれもほぐれ、時にはサークルの看板を背負うバンドとして色々と経験することが出来た。

そんな中で自分なりに(個人として力不足を感じることはあっても)活動には満足していたが、自分が加入して半年ほど経った頃にある話を聞いた。そのバンドはメンバーが1年生のころから計2年半活動していたのであったが、その様子をずっと見てきたサークルOBの方々が、「最近のあのバンドは演奏を”こなして”いるよね」といった感想を持っていたそうだ。

加入から半年、確かに自分の中でいい意味での緊張感を失っている部分があった。毎度サークルのライブのトリを担うバンドということで最初は気負う部分があったが、その初心を忘れていた。バンド全体として演奏が”こなして”いるように見えたのは、元々自分の演奏の実力としてあまり派手なことが出来ないプレイであるために前任者と比べ見劣りするという部分も大いに関係していただろうが、それでも出来ることを自分なりに突き詰めるという姿勢が当時欠けていたのかもしれない。様々なライブを大きな失敗もなくくぐり抜けた中で、どこか「このくらいの演奏をしていれば見てくれる人も満足してくれるだろう」という弛みが自分にあった。その後、この”こなしている感”を打破しようということを仲間と確認し、残りの活動期間はそのOBの言葉を頭の片隅において過ごしていた。本当に”こなしている感”が払拭されていたかどうか、これは観客の心中にしか答えがないので私には分からないが、ともかくこの”こなす”という言葉は私の中にしばらくひっかかっていた。

 

 

”こなす”という言葉は自動詞にすると”こなれる”であるが、これらは原義的には決してネガティブなものではない。こなれた文章、こなれた服装、「こなれ感」…等、洗練されていて洒脱なものを表す言葉であり、スマートな印象を受け手に与える。ただ、”こなす”という言葉で自分たちの演奏が形容されたときに身につまされたのは、スマートな印象の裏側にある意味合いである。そつなく物事をすすめるという事は、ともすればスマートとは対極の意味合いである「泥臭さ」が見えにくいのだ。どういう想いがあって、どういう意図で演奏や漫才といったある種の{表現}をしているのか。人々が見たいのは、地を這ってでも何か自分が表現したいことを表現してやろうという気持ちではないのか。

「いい演奏」が結局何であるのか、これは一括りに文章にするのは難しい。しかし、退屈な演奏とはどのようなものか、これは”こなす”という言葉が示唆しているように思う。何のためにバンドをしているのか?何でこのバンドに参加しているのか?これらが見えてこない”こなす”演奏には、中々感情移入することが難しい。

 

こんな事を1年かけてそれとなく考えていた折、和牛の漫才と上沼審査員の発言にはハッとした。和牛の漫才は、非常に高度に”こなれて”いるのである。長台詞を完璧に言い回し、3段オチもきっちり決まり、洗練されていてどこか余裕すら感じさせる。とても上手で面白い「作品」なのであるが、M-1という舞台においては何か他のフレッシュな漫才師とは異種の空気を感じる。観客が求めているのは、必死こいて這い上がりTVスターになってやろうという芸人の迫力であったり、泥臭さだったりするのではないか。和牛にはそのような気持ちが無いという事ではなく、漫才が洗練され過ぎているが故に気持ちが”隠されて”しまい、何か物足りなさを覚えてしまったのではないか。和牛が悪い訳ではない。一視聴者の身勝手な感想として、このように考えた次第である。

だから、この私の身勝手さを上沼審査員が掬ったかのように喝破した瞬間が、物凄く痛快だった。どのような表現の世界においても、”こなしている”ようにみなされてしまうと、受け手は覚めてしまうのである。

 

今回のM-1は史上最高とも呼ばれる盛り上がりを見せたが、それは異例なまでに多い決勝初出場組が、文字通り身を削り泥臭く漫才を披露したことと無縁ではないはずだ。勿論そこで壁となり立ちふさがった和牛をはじめとする常連組も、新参vs古参のアングルを生み出し番組を盛り立てていた。皆さまお疲れさまでした。