雑記帳

私の頭と心の中

100ワニについて書いてたら挫折した

  昨年末にブログを作ってからというもの、時々記事の下書きをしてはまとまらず、あるいは完成したものの「今年はこれをする」的な宣言が含まれていて、結局のところそれを有言実行する自信もなく、更新をせずに放置していました。

で、今年の一発目は結局抱負でも書き残したら無難かななんて思っていた所、抱負は既に決まっていたのですが、それに関連して気になるトピックが3月下旬に出てきました。例のバズり爬虫類マンガです。

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「これは」と思って気が向く時に書いていたのですが、結論から言えば途中で(それも結構早い段階で)挫折しました。書ききれなかった上に話題としての旬まで既に逃したのですが、以下ツイッターを荒らし回ったワニと格闘した跡だけは残しておきます。

 


 

今年の抱負、生きるテーマについて年始に友達と話していた中で、「美」を大切にしたいね、なんて話題が出たことを今思い出しています。

「美しく」生きるとはどういうことか?見かけが良い、目にやさしい等、外見に関すること以上に、判断や行動のあり方が「美しくある」為の重要な要素であると思います。何をもって美しいとするかは難しいですが、主観に基づく言葉である以上、何か「美しい」ものが客観的に実在する(最近哲学の本を読む中で、このような状態を"現前"と呼び、形而上学は概念の現前を目指すものとも考えられていると知ったので、馬鹿の一つ覚えで使わせて頂きます)のではなく、「『これがなんか気持ち良い』と思ったものを大切にする、自分の価値観を自分で守る、感情的判断を理性的判断だけで押し潰さないようにする」ということが「美」ではないかと自分は解釈しています。

 

 

で、本題。先日完結した「100日後に死ぬワニ」は、その最終日に賛否両論が湧き上がりました。正確に言えば、作品そのものの終わり方ではなくその後のメディアミックス展開について一部批判が集中する事に。あからさまな「商業主義」は作品の情緒を損なうだとか、はたまた広告代理店がバックに居た「ゴリ押し」の「商品」だったとか。

物事を見てどう感じるかは基本的に個人の自由であるし、まして「電通案件だ」等ある種陰謀論めいた議論に乗っかるのも馬鹿馬鹿しいのであまりこの事について首を突っ込む気はないのですが、どうしても一つだけ気になる批判の論調がありました。メディアミックス展開が、本編のストーリーの儚さに対して「美しくない」という言説です。

「美しくない」というワードは上記の批判の中で時折散見されます。というか、商業主義が作品の情緒を損なうという主張は概ねこの言葉に集約されるとも言えるのですが、その批判自体は多様な意見の中の一つとしてあっても良いと考える一方、直接的に「美しくない」という言葉を使われると「美」をテーマに2020年を生きてる自分からすれば引っかかるものがあります。お前は「美」の何なんだ、という話ではありますが。

 

先に書いた通り、「美」は客観ではなく主観、個人の価値観から生み出されるものという考え方の自分からすれば、その「美」を適用する範囲もまた自分がコントロール出来る部分においてのみ相応しいのではないかと思います。つまるところ、美は「自分がこうありたい」というものであり、「他人にこうあって欲しい」というものではないという事。個人個人によって「美」の基準が違うからこそ、自分が思う「美しい」ものを肯定する材料にはなっても、他人を否定する材料として用いる事は出来ないと思います。ワニの件であれば、作者が美しいと思うもの、あるいは自分以外の読者が美しいと思うものは自分の基準とは違いがあり得るのだから、自分の勝手な基準で「美しくない」と他者に言及する事自体が美しくない気がしてなりません。

 


 

と、ここまで書いてこのセンテンスは完全に挫折してしまいました。もう既にお気づきの方もいらっしゃると思いますが、いわゆる「自己言及のパラドックス」です。自分の基準でワニを「美しくない」と評する事自体が美しくない、という主張をするのであれば、そこでまた自分の物差しから他人を「美しくない」と言っている自分もまた「美しくない」のではないかという話。

先ほどの形而上学における"現前"について、20世紀の哲学者ジャック・デリダは「真理・本質・善といった概念が確固たる"境界"の定まったものとして現前する、という考え方自体が形而上学的な欲求による産物であり、それらの概念の境界は初めから存在しない」といったことを述べています。形而上学を追究する過去の哲学者達は、自分が取り組む形而上学上の概念についてこの世の中にカチッと範囲が定まった"答え"があると信じそれを追い求めていたが、そんなものはハナからない、と。

なるほどデリダの主張は読み進める中で納得する部分がありますが、どうしても頭をよぎるのはこの自己言及のパラドックスについてです。ものすごーく乱暴で浅い解釈で申し訳ないのですが、この世に正解、絶対正しいものはないという主張に対しては、その主張もまた絶対だと言い切れないのでは、という反論を唱えることが出来ます。

(これもまた書いてて思いましたがデリダの場合は「"境界"が存在しない」という言い方であり、何が正しい・間違いであるか固定化はされていないという考え方であるので、これを矛盾と考えること自体「善悪の境界が存在している」という視点に立っており、必ずしも矛盾しているという訳ではないと考えられます。いずれにせよデリダの主張については只のニワカなので頓珍漢な解釈であったらごめんなさい。)

 

話が逸れましたが、誰かを「美しくない」と評する他者について考えるほど、「美」が分からなくなってきました。ワニを「美しくない」と評する事もまたその人の「美」の基準に則っているのであり、物語完結後の展開についてもっと「美しい」方法がその人なりにあったのだから、『そんな「美しくない」という言葉の使い方は望ましくないよ』と他人に期待する自分もまた美しくないのかもしれません。

「美」とはなんなのでしょうか。他人を気にせず、ひたすら自分を磨く事だけが「美」なのでしょうか。今年も何も分からないまま、歳だけ1つ重ねようとしています。