雑記帳

私の頭と心の中

ニヒリストも食べるニヒリスト冷麺

最近自分はニヒリストなんじゃないかという疑念に苛まれている。

 

昨日も歩いてる時にこの事を思い出し、考えが纏まらなくなった。駅近くのガードレール的な物体に腰を下ろし、目的地に着く前にケリをつけようと試みる。

考えてみれば、生きていてこれを達成しようという野望がない。今自分が満足すればそれで良い、じゃあ自分を満足させるものとは?衣食住が満たされて、これ以上何を求める?生きるためのガソリンは何?まとまらない。

 

 

座っている場所の近くを車が通った。あんな大きな物体に至近距離を走られると怖い。

〜ふと思った。生きる事に何も意味がないのなら、私は死んでも問題ないのか?あの車に轢かれてもニヒリストだから何も思わないのか?

そんな事はない。車に轢かれて死ぬのは怖い。

〜なんで?

最初に思いついたのは「痛いから」だった。ニヒリストでも"今この瞬間"に苦しい思いをする事はしたくないはずだ。快楽や苦痛は、価値観に意義を見出さない人間にだって存在する。

〜じゃあ、車に轢かれる以外の死に方なら問題ないのか?

その時に思いついたのは「痛くない死に方は無い」だった。厳密に言えば、100%苦しまないと言い切れる死に方は恐らくない。死に方に詳しくないが、どんな死に方であっても死ぬ瞬間に苦痛を感じないとは誰も断言出来ないはずだ。何故なら死んだ人にしか死ぬ時の苦しみは分からないのだから。

〜〜でもそれは、今この時点での科学の中の話であって、「死んでも問題ないか」とは全く関係がない。じゃあ思考実験として、明日「100%苦しまない死に方」が開発されたとしたらその死に方で死ぬ?

死なない。死ぬ事自体も怖い。死は不可逆。死んだ後に生きる事は出来ないから、生きている内にしか楽しめない事を楽しまなければならない。

 

この時に気づいた。"死に抗い、生を楽しむ"のも価値観の一つではないのか。価値への執着がないふりをしても、死ぬ事の恐怖、生きる事への固執はなぜか拭い去れない。ニヒリストは一体どうやって死と向き合っているのか。

 

 

、、、よく分かんないので「ニヒリズム 死」で検索した。

やっぱりよく分かんなかった。恐らく体系立った哲学書でも読んだ方がよい。検索して分かるほど甘くない。

でも代わりに面白そうなページはあった。

「死ぬのが怖い」人に贈る七つの対処法(前野 隆司) | ブルーバックス | 講談社(1/4)

筆者の著作を紹介する記事のようだが、「死ぬことが怖い」と思う感覚とニヒリズムの関係について最後の方で触れられている。

 

では、結局、「死ぬのが怖い」とはどういうことだったのか。それは本書を読んでのお楽しみだが、一言でいうと、「そう思うように人はできている」ということである。それだけ。
あらゆる他の事柄と一緒だ。物事には本質的な意味はない。何もない。答えはない。あるとしたら単なる動物という機械論。あるいは、ニヒリズム

しかしそれは悲観ではない。悲観しているうちはニヒリズムではない。楽観も悲観も超越したところにニヒリズムはある。

 

曰く、自然科学や社会科学がもたらした帰結として、死ぬのが怖いのは「死ぬのが怖いと思うように人間は出来ているから」らしい。本質的な意味もなく、「そうなっているから」というニヒリズムだ。いくら楽観や悲観を超越したニヒリズムの境地に達しようとしても、「死ぬのが怖いと思うように出来ている」と客観視しようとしても、人間が人間である事を捨て、主観を超えた客観100%の世界に達する事は出来ないのだから死への悲観は消えないのではないか?と私は思うが、ともかく筆者は死を超克するニヒリズムを勧めている。

 

 

 

 

「客観」の存在を信じていない自分には、この話があまり腑に落ちなかったので同じ検索結果から別のページを読んだ。

折れない心を育む ~「レジリエンス」の視点から~ – 京都大学 都市社会工学専攻 藤井研究室

「思春期学」と題し、大学院教授が研究室のホームページで教育について論じたもののようだ。

参考文献もいくつか示され最終的にはかなり強い口調で社会への警告を発しているが、正直に言うと読む中でとてもイライラした。

本文では現代日本に蔓延するニヒリズムこそが子供達の精神を絶望の淵へと追いやっていると論じ、「価値観の多様化」の名の下にニヒリズムに強大な権力を与えた大人たちを断罪している。そこは別に良いのだが、この「悪夢のような時代」とやらから脱却するための処方箋として、「誰一人として例外なく我々は死すべき存在なのであるという認識の下、当たり前の伝統の保守と復権,さらには、真善美を愛し、保守せんとすると同時に、偽悪醜を憎み闘う勇気と実践」することが必要と説いている。

美しきもの、正しいもの、善きものを認識し、醜いもの、偽なるもの、悪しきものを批難することを大人たちが実践するよう本文の帰結として長々と論じているが、全体的に「真善美」がはっきり一意に定まるかのような物言いが気に障る。一つの「真」、一つの「善」、一つの「美」がこの世に存在し、そうでないものは存在してはならないかのような論調だが、ポスト構造主義の本に影響されたミーハーから言わせてもらえばこの考え方が納得出来ない。答えが一つだけ存在するという思考は「他なる者」との対話を拒むという意味で独善的であり、検証可能性を封じるという意味で非科学的だ。絶えず混ざり続ける善と悪を単純に分割することは、形而上学の外(形而上学とはプラトン信奉者によるプラトン擁護のための理屈)にいる他者を無視、または抹消する態度に他ならず、このような論調は「自分の真善美」を他人に押し付けるための我田引水に他ならない。

大体、「ニヒリストであればカネも名誉も地位も限りなく喰らい尽くす」とか、「ニヒリズムの境地においては自殺や少女売春がはびこる」とか凡そそういったことが本文に書かれているが、短絡的にニヒリズムに諸悪の根源をおっかぶせすぎではないか。何故そう思ったのかと言えば、以下の記述が目に余ったからだ。

 

しかし、どれだけ彼らがニヒリズムに浸っていたとしても、彼らの精神が打算や気分や空気で満たされることはない。精神はあくまで精神であり、打算や気分とは無縁の世界で躍動し続ける「形而上的」な存在であり、それを満たすためにはニヒリストでは絶対に価値を見いだすことができない「形而上的な養分」(例えば、家族との平凡な暮らし、芸術や美しい自然との接触等)を必要とするのである。

精神を満たす栄養分として一番に出てくる例が「家族との平凡な暮らし」?結婚のアンチなのでこめかみがピキピキしてしまった。そもそもニヒリストが家族を大切にしないというのが暴論だと思うが、それはおいといて「家族と平和に暮らすのが高尚だ」などという一方的な決めつけは私は決して容認できない。筆者の思う「真善美」とやらは、やはり筆者にとってのみ都合が良い狭小なものに見えてきてしまう。「真善美」を一人一人の大人が実践すればそこには必ず価値観の相違が生まれるはずで、そこで行うべきはまず対話であり「偽悪醜を憎み闘う」なんて記述をする前にやる事がある。「ニヒリズム」という悪の秘密結社と戦うヒーローになった気分で、自分の理想を他人に押し付ける免罪符として「真善美」を利用していないか。

 

 

 

 

 

 「結婚」と「美」、いつも話題にしているワードが使われていたせいでついついピキってしまった。まあ、ここで論じられていないだけで真善美を探るための他者との対話、定義の拡張と変化は別に論じていたり、あるいは実践しているのかもしれない。アンチ結婚派としてのポジショントークに躍起になる余り支離滅裂な事を言っているのは私の方だ。

それよりも、私が気付いたのは私自身の価値観だ。"自由"や、"対話"や、"考え方を他人の決めつけで縛られないこと"を実は自分は大切にしていたじゃないか。生への執着と自由の渇望。この二つを価値判断の基準として持っているのだ。どっちかはニヒリストの定義に対する私の誤解から棄却されるかもだが、二つもあれば言い逃れできる。やっぱり私はニヒリストではなかった。やった。

 

 

気がつくと1時間半路上に居た。目的地のガストへ慌てて向かう。夏の期間限定メニュー、山芋オクラの冷麺769円。美味い。食べながらまだ考えていた。私はニヒリストじゃないから美味しいご飯が好きなのか?ニヒリストは食べるものにも興味ないのか?いや、ニヒリストこそ享楽主義だから三大欲求の一つたる食欲には拘るはずだ。

支払いはpaypayの5%割引クーポンを使う。私はニヒリストじゃないから割引が好きなのか?割引が好きと言うことはお金に執着しているから虚無主義ではないのか?いや、ニヒリストもお金には執着するはずだ。今を楽しむのにお金は必要だから。

 

 

やっぱりニヒリストかどうか自分を疑い続けてしまっている。

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21歳のあの時に結婚しとけば良かった

ご存知の通り私は将来結婚をするつもりがありません。自分のお金や時間は100%自分の為に使いたい。他人に生活の歩調を合わせるのが耐えられない。そんな器の小さい人間であり、私と誰かが結婚する事はお互いにとって不幸しか生み出さない。現時点ではそのように考えています。

この考え方はそれこそ高校生ぐらいの頃から抱いていて、「結婚したい」と思った時期は今のところ人生で一度もないです。ところが、今思えば21歳の時に一度だけ、ある方と結婚すべきタイミングがありました。先にネタバレしてしまうと、その相手と私は今も昔もお互いに恋愛感情は皆無です。

とは言っても、今からするこの話は98%冗談ですが、思い返せば2%は真面目に検討する余地がありました。冗談の中から結婚観を改めて考え直す機会に。

 

 

 

 

その結婚すべきだった相手とは、年に数回会うか会わないかの同じ大学の知り合いです。友達と呼ぶにはおこがましいぐらいで、ごくごくたまに会っては身の上話をする程度。"よっ友"という表現が近いでしょうか。正直大した知り合いでもないのにブログで話の種にするのも申し訳ないので、必要以上の描写はしないように気をつけています。

関係性が希薄とはいえ、とても気さくな方で、たまに会う機会では話が弾むこともあります。これは言わねばならない事として、彼女はとても頭が良く、そして"ぶっ飛んだ"考えをする方だと私は勝手に思っています。というか彼女の知り合いでそう思っている人間は多いのではないでしょうか。経歴、価値観、能力全てが桁外れというか、常人とは住む世界が全く違うという感じで、それ故に会話をすると言葉がポンポン出てくる上にどの話もおしなべて面白いです。

 

 

それで、数年前の飲み会でのこと。学業、キャリア、人間関係…彼女はいつものようにぶっ飛んだ話を次々と繰り出していたのですが、その中でこのような話題を口にするタイミングがありました。

「ウチの大学は学生同士で結婚すると学費が安くなるんだよ。だからとりあえず私と結婚しない?」

本当に学費が安くなるのかどうか私はシステムをよく知らないし事実確認はここでは置いておくとして、彼女は突然こんな冗談を私に振りました。

普通なら多少は驚くべき場面であるし、冗談でも結婚しようと言われたらドキッとするのが正常かもしれませんが、彼女のパーソナリティを知っている人間からすれば特段驚く発言ではありませんでした。仕事、収入、あるいは恋愛観について極端なまでに合理的な考え方をする人である事はとっくに知っています。彼女は偶に理想の異性の話もしていましたが、それと私は完全にかけ離れており、この発言が何ら人間関係として含みを持った言葉ではないことは明らかです。何年か前の酒席でのことなのでよく覚えてはいませんが、その場で他の人にも同じ冗談を言っていたのではないでしょうか。同級生なら誰でもこの結婚の要件には当て嵌まるので。

私も彼女に異性として特別な感情を抱いてはいなかったし、逆に言えば合理的な人間である彼女のこの言葉はからかいではなく理詰めでの帰結なのかもしれないと考え、それ故やや返答に詰まり、この人はいつも面白い話をするなと心の中で思いつつ、「僕は結婚は一生しないつもりだから遠慮するわ笑」と何とか返答していました。結婚しない?と持ちかけられることは21歳では冗談でもほぼない話なので上手い返しが思いつかず、こう答える位しか無かったのですが…。

 

 

 

 

その後、その方とはますます疎遠になり、今は年に1、2回ほどしか会う機会はありません。ツイッターもアカウントは知りながらフォローをしていなかったのですが、つい数ヶ月前に「〇〇さんがいいねしました」の形式で彼女のツイートが久しぶりに目に入りました。

noteを使って重要な事を書いているらしく、何気無しに開いて読んだのですが、そこで彼女はカミングアウトをしていました。全く知らなかったのですが、同性愛者であったそうです。

同性愛者であることは令和のこの時代において珍しいというほどの事ではなく、勿論私は(少なくとも意識の上では)偏見を何も持っていません。そうなんだ〜知らなかった〜と思いつつ流し読んでいました。私が知らなかったのもある意味当然で、元々はバイセクシュアルだった?のがここ数年の中で同性のみに恋愛対象が移り変わっていったそうです。両性愛から同性愛へと性的指向が変化するという人自体、私の他の友達にも居たので特に驚くこともありませんでした。

 

 

 

何気無しに読みページを閉じ、この件は直ぐに忘れたのですが、しばらく月日が経った後で例の飲み会での会話を思い出しました。

思えば、彼女は気になっている特定の異性のこともその飲み会で話していました。だから、そのような指向があるということは全く思ってもみなかったのですが、カミングアウトの話を読んだ後から考えれば、冗談で「結婚しよう」なんて言っていたのもある意味合点がいきます。単なる深読みなら申し訳ありませんが、当時から彼女が異性を愛することへの違和感をもし抱いていたのであれば、そのような冗談が出るのもおかしくはないのかもしれません。

 

 

 

 

さて、私は将来結婚したくない事をいつも公言して憚りませんが、これは裏を返すと「結婚するのが当たり前という世の中は終わって欲しい」という問題意識があります。結婚をしない事で名誉が傷つけられたり、社会的地位に影響があると私個人としては困ります。(この辺は各々の立場から議論があって然るべきだと思います。)つまるところ、私は結婚をしたくない一方で「結婚する事で得る社会的なメリット」には興味を抱いており、羨ましさを感じる部分があります。都合が良いことこの上ありませんが。

 

 

何が言いたいか。女性の同性愛者と結婚して一般的な"結婚生活"はせずに社会的メリットだけ得たい、で済む単純な話ではありません。結婚はお互いの同意、利点があってするものであり、こちらの一方的な損得勘定を押し付けることは以ての外です。それぞれの恋愛面でのパートナーとはどうするのか。将来同性結婚が解禁されたらどうするのか。考えなければならない事は沢山あります。

しかし、一応誰に対しても言っていた冗談とはいえ、結婚の話を振られた身として少しは真面目にこの件から私の結婚観を改めて検討しても許されはしませんでしょうか。

既に世の中では少ないながらも先例があるように、利害関係の一致による性愛の無い結婚、これは、今後生きていく中で一考の余地があるのかもしれません。考えに考えた上で、そのような選択肢を取る可能性が無いとは言い切れない。「結婚したくない」の一点張りで結婚観を古臭いものに縛っているのは、もしかしたら自分の方かもしれません。

(ここまでに書いた話は全て自分本位、自分の利益のみに固執した考えであり、結局自分が凡そ結婚に向いてないことは明らかではあります。)

 

 

 

 

p.s.お相手の方、大した友人関係でも無いのに貴女の都合も考えず、また性的指向を取り沙汰してブログの種にしてしまい改めて申し訳なく思っております。読者も含め、不快な思いをさせていたら申し訳ありません。

怒りの10倍けんちん汁

今はすっかり回復したが、先週の日曜日辺りから体調がイマイチ優れなかった。

 

時節柄、もしかしたらウイルスに感染したのかもしれないと当然最初は心配した。しかし、よくよく自分の体調を観察してみるとコロナウイルスによって現れる諸症状とはだいぶ違う。嗅覚・味覚に異常はほぼ無いし、呼吸器官に概ね異常はない。発熱もあまりしていなかったと思う。自覚症状は強めの倦怠感と痰が絡むことぐらいだ。

思えば、毎年この時期に自分は体調を崩しやすい。去年もこの時期にインフルエンザに罹患していた。随分季節外れなもので、ちょっとした一人パンデミックを引き起こしかけたことを反省している。

恒例の春の風邪が今年もやってきたのではないのか。自覚する限りでは風邪のひき始めくらいの軽症であり、病院に診察に行くのもこの情勢ではかえって危ないと判断し、大人しく家で寝ていることにした。

(↑去年の同時期)

 

で、食糧を買い込み家で寝ていたのだが、一つだけ困る事があった。キッチン器具を触ることが出来ない。

ウイルスに感染している可能性こそかなり低いものの、万が一の事を考えると実家暮らしの私は家族と共用しているものに触れるわけにはいかない。タオルやら他の生活用品は自分が使うものを部屋に置きマーキングすれば良いが、包丁、鍋、ボウル等調理器具だけは自分用のものが無く、自炊する事ができない。

 

 

そんな訳でしばらくはコンビニ・スーパーで買った惣菜を食べていた。作り置きの惣菜を買って食べる事自体は普段もままある事で、今はコンビニ惣菜もレパートリーが豊富で基本的には不便さを感じることはない。

しかし、それが2〜3日続くとどうしても我慢ならない事が生じてくる。

汁物がインスタントのものしか食べられないのだ。

 

 

かねてからの私の勝手な持論として、食事の満足感の多くを担っているのは実は副菜汁物だ、と信じている。主菜=おかずは何が来たってある程度収まるところには収まる。バンドでライブをする時、結局は最後に何の曲を持ってきた所で「これが最後の曲です」とMCをすれば、最後であるというエモさで何とかなるのと同じだ(?)。代表曲を持ってきたっていいし、一番客がノレるポップな曲でも良いし、テクい曲でもバラードでも良い。

一方、退屈なライブにさせないためにはクライマックスへの持っていき方のほうが難しい。徐々にボルテージを高めていくセトリにするのか、最初はぶち上げて中盤を落ち着かせるのか、エモ曲とチル曲を交互に並べるのか、意外とパターンが限られてくる。食事における副菜と汁物もこれと同じで、サラダ・スープといったものは自分で作るとなるとおかずに比べレパートリーが限られがちになる(気がする)。ここの質を如何に高めるか、正におかずの「お膳立て」こそが勝負の鍵になるというのが私の勝手な考えだ。

 

この点で、汁物をインスタントしか食べられないというのは食事のセトリにおいてダメージが余りに大きい。副菜はコンビニ惣菜でも何とかなるが、汁物は何ともならない。最後に持っていきたい曲は沢山あるのに、序中盤に持ってこれる曲は毎度同じようなレパートリー(それも薄っぺらい味付けの打ち込み4つ打ち系)しかない。これが中々耐え難い。文句を言った所で現状は変わらないので、当面は我慢しつつ、体調が回復したらエモくてテクくてぶち上げで全ての要素を詰め込んだ汁物を作ってたらふく食べるぞ、そういった忸怩たる思いで布団の中に潜っていた。

 

 

 

 

その結果として、体調が回復した金曜日、スーパーで根菜を買い漁り、出汁をとり、4人前レシピの更に分量2.5倍、10倍けんちん汁が我が家に召喚された。その日の食事用、つまみ食い用、保存用、勿論全部1人占め。これこそ大人の醍醐味である。

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カミングアウト

別に大層な話ではないが、恐らく自分は潜在的に「女の子になりたい」という欲求がある。気持ち悪いでしょうか。気分を悪くさせてすいません。後で書きますが、女装はしません。

 

性的自認がどうだ、嗜好がどうだという事ではない。所謂LGBTとは全く無縁なところで、純粋にそういう憧れ、みたいなものがある(気がする)。

少年が"正義の味方"に憧れるのと似たようなものだろうか?そういえば、小さい頃は仮面ライダーや戦隊モノのヒーローに全く興味が無かった一方で、たまに早起きした休日の朝はこっそりセーラームーンを見ていた。もっともストーリーを深く追うほどのファンではなく、漠然と「カッコいいなあ」と惹かれて見る程度ではあったが。自分がセーラームーンに惹かれているというのは、少年として何かひどく恥ずかしいような気がして家族にも友達にも話していなかった。

 

この「女の子になりたい」という気持ちの正体が何なのか、自分でも未だ上手く落としどころをつけられていない。

「可愛い女の子」「カッコいい女性」、こういったものは男女問わず大体の人間が好きであろう。ただし、一般的には男性がそれに対し惹かれる部分は、"異性としての魅力"だろうか。一方、女性は"同性としての憧れ"、自分もこうなりたい、的な感情が含まれるのだと思う。(自分は女性ではないのでこの辺は詳しくは分かりません)

自分は、前者と後者の感情が両方ある。"カワイイ女の子"に対して、時に何か嫉妬めいたものまで感じる事があるが、これは決して前者だけでは説明がつかない。自意識過剰なだけ?或いは自分以外の男性も実は同じ事を思っているのでしょうか?

 

「女の子になりたい」気持ちは常に自覚していたり、発露する訳ではない。生きてきた中で、突然一定の時期にまとめてやってきた。それが1回や2回ではないから、次第に自分の性格の一つとして認識するようになった。

例えば、半年前から自分はとても「丸の内にゃんにゃんOL」に憧れている。詳しくは省くが、これは雑誌東京カレンダーで名付けられた"女子の生態系"的な呼称の一つで、丸の内で一般職として勤務し、猫を被り様々な男性の誘いをいなしつつ、同じく丸の内に勤めるハイスペック男子との結婚を狙うOLを指すものである。

実録!リアル丸の内にゃんにゃんOLが出現する、噂のレストランたちはココだ!(1/4)[東京カレンダー]

「出たとこ勝負」「住めば都」を信条とし人生設計がちゃらんぽらんな自分は、「将来の夢は?」との質問にまともに答えられた試しがないが、今は間違いなくこの「丸の内にゃんにゃんOL」だと切り返すことができる。彼女らに憧れるのは、「生きてるだけで、誘われる」というキャッチコピーが示す通りきっと人生イージーモードなのだろうな、という私の浅はかな欲望もまた多分に含まれるが、「モテる」のが羨ましいだけならモテる同性にその眼差しは向くはずで、これもまた「女の子になりたい」の発露の形の一つなのだろう。丸の内にゃんにゃんOLにお近づきになりたいのではなく、丸の内にゃんにゃんOLになりたい。異性として交友関係を築くにしては、丸の内にゃんにゃんOLのあざとさは多分しんどい。最も、ハイスペ男子を狙う丸の内にゃんにゃんOL側からして私など願い下げだろうが。(そうでなければ原義的に丸の内にゃんにゃんOLではない)

 

そういえば、自分では「女の子になりたい」などと早々口にすることはないのに、それを周囲(特に女性)に見透かされていたこともあった。4年前に友達数人から誕生日プレゼントを頂いた時に、何故かそれがつけまつげ、ヘアバンド、キティちゃんグッズなど女性用アイテムばかりだった事があった。ただの悪ふざけであるのだが、「お前にそういう趣味があると思って選んだ」というようなことを言われたのを何故か覚えている。というか、もしかしたら「女の子になりたい」という気持ちへの自覚はそこから来てるのかもしれない。勿論それ以前から何となく、「そういう趣味」はあったが。

 

結局そのプレゼントは一度(それもおふざけ)しか使う機会が無かった。実の所その際はメイク等も多少したのだが、とにかくその当時も今も思うことは「女の子になりたい」と「女装願望」は全く一致しないということ。これを一緒くたに考えてた時期もかつてあるにはあったが、、、結局自分は女の子ではない。女装とは女の子を「真似る」行為であり女の子そのものに「なる」のとは全く異なるものだ。どんなに上手く外見を取り繕ったとしても、その人間の性別が変わる訳ではない。0.9999…=1となるのはあくまで数学上での話であり、私の「女の子らしさ」は女装では1にはならない。じゃあ自分がなりたい「女の子」の定義とはなんだ?心?性的指向?身体的特徴?そこを突き詰めていくと結局何になりたいのかも全く分からなくなってくるが、ともかく人生における数少ない女装体験をした当時は「こういう事ではないんだよな」などと、鏡に映った似合わない格好をしている自分を見ながら考えていた。まあもし自分が女装が似合う人間であれば、そこで「女の子になりたい」欲求は充足され上記の考え方が変わっていた…程度のものなのかもしれない。

 

 

このように、決してハッキリとした自意識では無いものの、思い返してみれば「女の子になりたい」という捉え所の無い小さな欲求が表出していたのかもしれないな、というエピソードが生きてきた中で幾つか思い当たる。そういった話の共通点としてこの欲求を探り当てた、いわば帰納的な推理であるので、この先もそうであるという保証も無いし、今までがそうだった、というだけなのかもしれない。それでも、少なくとも今の自分は自分の性格をこう思っているということは一度まとめておきたかったので、ブログで「女の子になりたい」論について記す事は年明けから考えており、一度書いては投げ出したものの何とか今更1つの投稿として成立するに至った。

 

 

最後に、、、ここまでの話は単なる願望、とすらも言えないようなうっすらとした欲求ではあるが、ブログに書いてみて思うのはそんなレベルであっても「自分はこうですよ」と性別に関する考え方を他者に伝えるには随分とエネルギーがいるということ。

芯が通ってないただの欲であるからこそ気恥ずかしいだけなのだと思うが、男らしく・女らしくという旧時代的な性別への観念はもしかしたら想像以上に根深く自分たちの中に存在しているのかもしれない。ただの思い込みや勘違いだと良いのだが、ストレートな性的自認である自分なりに"ストレートではない"人たちがそれを周囲に理解してもらう為の苦労を考えるきっかけにはなるし、ある種怖さも覚える。(実際にストレートでない性的自認をカミングアウトするのに比べればごくごく稚拙な話なので、比較する事自体不適当ではあるかもしれず、申し訳なく思っています。)

 

100ワニについて書いてたら挫折した

  昨年末にブログを作ってからというもの、時々記事の下書きをしてはまとまらず、あるいは完成したものの「今年はこれをする」的な宣言が含まれていて、結局のところそれを有言実行する自信もなく、更新をせずに放置していました。

で、今年の一発目は結局抱負でも書き残したら無難かななんて思っていた所、抱負は既に決まっていたのですが、それに関連して気になるトピックが3月下旬に出てきました。例のバズり爬虫類マンガです。

twitter.com

「これは」と思って気が向く時に書いていたのですが、結論から言えば途中で(それも結構早い段階で)挫折しました。書ききれなかった上に話題としての旬まで既に逃したのですが、以下ツイッターを荒らし回ったワニと格闘した跡だけは残しておきます。

 


 

今年の抱負、生きるテーマについて年始に友達と話していた中で、「美」を大切にしたいね、なんて話題が出たことを今思い出しています。

「美しく」生きるとはどういうことか?見かけが良い、目にやさしい等、外見に関すること以上に、判断や行動のあり方が「美しくある」為の重要な要素であると思います。何をもって美しいとするかは難しいですが、主観に基づく言葉である以上、何か「美しい」ものが客観的に実在する(最近哲学の本を読む中で、このような状態を"現前"と呼び、形而上学は概念の現前を目指すものとも考えられていると知ったので、馬鹿の一つ覚えで使わせて頂きます)のではなく、「『これがなんか気持ち良い』と思ったものを大切にする、自分の価値観を自分で守る、感情的判断を理性的判断だけで押し潰さないようにする」ということが「美」ではないかと自分は解釈しています。

 

 

で、本題。先日完結した「100日後に死ぬワニ」は、その最終日に賛否両論が湧き上がりました。正確に言えば、作品そのものの終わり方ではなくその後のメディアミックス展開について一部批判が集中する事に。あからさまな「商業主義」は作品の情緒を損なうだとか、はたまた広告代理店がバックに居た「ゴリ押し」の「商品」だったとか。

物事を見てどう感じるかは基本的に個人の自由であるし、まして「電通案件だ」等ある種陰謀論めいた議論に乗っかるのも馬鹿馬鹿しいのであまりこの事について首を突っ込む気はないのですが、どうしても一つだけ気になる批判の論調がありました。メディアミックス展開が、本編のストーリーの儚さに対して「美しくない」という言説です。

「美しくない」というワードは上記の批判の中で時折散見されます。というか、商業主義が作品の情緒を損なうという主張は概ねこの言葉に集約されるとも言えるのですが、その批判自体は多様な意見の中の一つとしてあっても良いと考える一方、直接的に「美しくない」という言葉を使われると「美」をテーマに2020年を生きてる自分からすれば引っかかるものがあります。お前は「美」の何なんだ、という話ではありますが。

 

先に書いた通り、「美」は客観ではなく主観、個人の価値観から生み出されるものという考え方の自分からすれば、その「美」を適用する範囲もまた自分がコントロール出来る部分においてのみ相応しいのではないかと思います。つまるところ、美は「自分がこうありたい」というものであり、「他人にこうあって欲しい」というものではないという事。個人個人によって「美」の基準が違うからこそ、自分が思う「美しい」ものを肯定する材料にはなっても、他人を否定する材料として用いる事は出来ないと思います。ワニの件であれば、作者が美しいと思うもの、あるいは自分以外の読者が美しいと思うものは自分の基準とは違いがあり得るのだから、自分の勝手な基準で「美しくない」と他者に言及する事自体が美しくない気がしてなりません。

 


 

と、ここまで書いてこのセンテンスは完全に挫折してしまいました。もう既にお気づきの方もいらっしゃると思いますが、いわゆる「自己言及のパラドックス」です。自分の基準でワニを「美しくない」と評する事自体が美しくない、という主張をするのであれば、そこでまた自分の物差しから他人を「美しくない」と言っている自分もまた「美しくない」のではないかという話。

先ほどの形而上学における"現前"について、20世紀の哲学者ジャック・デリダは「真理・本質・善といった概念が確固たる"境界"の定まったものとして現前する、という考え方自体が形而上学的な欲求による産物であり、それらの概念の境界は初めから存在しない」といったことを述べています。形而上学を追究する過去の哲学者達は、自分が取り組む形而上学上の概念についてこの世の中にカチッと範囲が定まった"答え"があると信じそれを追い求めていたが、そんなものはハナからない、と。

なるほどデリダの主張は読み進める中で納得する部分がありますが、どうしても頭をよぎるのはこの自己言及のパラドックスについてです。ものすごーく乱暴で浅い解釈で申し訳ないのですが、この世に正解、絶対正しいものはないという主張に対しては、その主張もまた絶対だと言い切れないのでは、という反論を唱えることが出来ます。

(これもまた書いてて思いましたがデリダの場合は「"境界"が存在しない」という言い方であり、何が正しい・間違いであるか固定化はされていないという考え方であるので、これを矛盾と考えること自体「善悪の境界が存在している」という視点に立っており、必ずしも矛盾しているという訳ではないと考えられます。いずれにせよデリダの主張については只のニワカなので頓珍漢な解釈であったらごめんなさい。)

 

話が逸れましたが、誰かを「美しくない」と評する他者について考えるほど、「美」が分からなくなってきました。ワニを「美しくない」と評する事もまたその人の「美」の基準に則っているのであり、物語完結後の展開についてもっと「美しい」方法がその人なりにあったのだから、『そんな「美しくない」という言葉の使い方は望ましくないよ』と他人に期待する自分もまた美しくないのかもしれません。

「美」とはなんなのでしょうか。他人を気にせず、ひたすら自分を磨く事だけが「美」なのでしょうか。今年も何も分からないまま、歳だけ1つ重ねようとしています。

ファンキーじいさん

来る12月30日、ビルボードライブ東京へファンク・ディスコバンド zapp の来日公演を見に行った。

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当日のR指定席。指定席の中では最安値なのに、ステージが近い(但し運は絡む)

とにかくハチャメチャで良かった。演奏がメインなのかダンスがメインなのか分からないし、曲中にバク転するし、ファンクお得意の"○○(回数)times!"のキメでは101回を要求するし。ファンクバンドはかくあるべき。

さて、ライブレポートやらzappの魅力についてはネット上の数多のページに譲るとして、ここでは客席にいた自分がぼーっと考えていたことについて。

この日のライブは、40代~60代と思われる観客が多くを占めていた。普段は同世代としか音楽をやらないのでブラックミュージックを我が物のようにとらえているが、ことディスコミュージックというジャンルは70's80'sに最盛期を迎え、その頃に「若者」であった世代にはクラブに通ったりレコードを集めたり、青春としてディスコを享受した人々が沢山いる。これらは至極当たり前の話であるが、しかしライブの熱量、いい意味での能天気さとIQの低さが、観客層の年齢の高さとミスマッチしてるように見えて自分には新鮮に映る。東京ミッドタウンの中心、前菜が3500円するようなクラブで、zappTシャツを着てアフロを被った、還暦とお見受けされるファンキーじいさん・ファンキーばあさんが往年の名曲に立ち上がって揺れる。テリー・トラウトマンによるコール&レスポンスに叫ぶように応える。ライブへの熱狂は、現在進行形の若者だけのものではない。

同じくディスコといえば、以前にサークルの営業活動として、OBが小さなビルを貸し切って主催したディスコイベントに演奏しに行ったことを思い出した。こちらはもう少し若い方々が中心であったが、それでも普段は会社役員をしていそうな雰囲気のあるサラリーマンも、自分たちのディスコ演奏するディスコミュージックに反応してくれる。DJが流す4つ打ちの曲に踊る。ノレる音楽の前にジェネレーションギャップは無縁であった。

(結局そのイベントではOBの計らいでタダで飲食出来たり、後にkiki vivi lilyと共作で曲を出しているSUKISHAさんを対バンで知れたりめちゃくちゃ得をしました。今後も営業のお誘い待ってます。)

 

何が言いたかったのかといえば、若いころに通った音楽は一生血肉になるのであろうということ。エネルギッシュな音楽に青春を燃やしていれば、年をとってもライブでエネルギーを発散させることが出来る。それが傍目から見れば年不相応であっても。何もディスコに限った話ではなく、例えばシティポップと呼ばれるジャンルが将来、シティボーイ・ガール(?)だったおじいさんおばあさんが集まり、昔を懐かしむようなライブになっているかもしれない。(ナウな音楽の例えとしてトンチンカンですいません。)そんなことをzappを見ながら考えていた。流石におばあさんがアフロなんか被るのはディスコぐらいだろうけど。

今聞いてる音楽を、生涯の伴侶と思って大切にしたいですね。

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営業にて

 

【M-1GP 2019】上沼さん、おっしゃる通りです。 ”こなす”漫才と、”こなす”演奏

皆さんは、今年のM-1グランプリをご覧になられましたか。いや面白かったですね。

www.m-1gp.com

僕は取り立ててお笑いファンという訳ではなく、年によってM-1は見たり見なかったりなんですが、見るとその後の年末にお笑い熱が高まっちゃうタイプのミーハーです。敗者復活戦の動画を見たり、決勝について色々考察されている記事・ブログを読んだり。

なお、僕が一番好きな芸人はマヂカルラブリーです。最近はボケの野田クリスタルが制作してるアプリゲーをやったり、野田が自作ゲームを実況するyoutubeチャンネルを見るのが趣味です。なので、番組開始直後の敗者復活中継で、野田クリスタルが上裸で「えみちゃん待っててね~!!!!」と今年も叫んでくれた時点でもう満足でした。これさえあればいいM-1、いい年末。野田の魅力について、いつかまとめて書くかもしれません。

www.youtube.com

 (↑野田クリスタルyoutubeチャンネルでも特に好きな動画)

 

さて本題。何故M-1についてブログを書いたかというと、今年の放送の中で自分が日頃モヤモヤと思っていた事を言葉にして演者が看破してくれる痛快なシーンがあったから。それは漫才中ではなく審査の時の出来事。出番順で5番手のからし蓮根の漫才が終わり得点が発表された後、真っ先にマイクを振られた審査員の上沼恵美子からし蓮根を褒める中で突然、既に漫才を披露した優勝候補和牛に矛先を向け激しく批判をした。見返すとおおよその内容はこんな感じだ。

からし蓮根は初々しさが良い。それに比べて、私の推していた和牛の漫才は横柄で何も緊張感がなくぞんざいなものをかんじる。皆が頂点を取ろうと必死さを出すのがM-1の良さであり、だからこそ実力があるのに一度準決勝で負けた和牛(※決勝には敗者復活で進出)は、応援していただけに腹が立つ。」

本来はからし蓮根について批評すべき場で、しかもここまでの激しい個人攻撃は異例だと思う。この件について案の定ネットは荒れ、やれ和牛が可哀想だ、いや上沼は正しいと感想・批判が入り乱れた。和牛のフォローをすれば、3年連続でM-1準優勝した実力の確かな漫才師であり、彼らの漫才に見慣れた視聴者としては和牛に求めるハードルが上がってしまっている。加えて、和牛の漫才は緻密に練られたスキのないものであり、それを流暢に淀みなく見せていく展開はともすれば見る側にとっては初々しさとはかけ離れた印象を持ってしまう。しかし、これは和牛の努力・経験の賜物であり、漫才を見ただけで和牛のM-1に対する想いを推し量るというのはそれこそ少々横柄だ。

 

それでも、自分はこの上沼恵美子の発言には胸のすく思いがした。それは、普段のバンドサークルでの活動で似たようなことを何となく感じていたからだ。

人の心を動かすものとは何か。大げさに言えば、見る側の心を動かそうと演者が努力をするという点では漫才とバンドには共通するものがある。それが笑いなのか、心地よさやカッコよさなのか、表現は異なるが。どういった演奏が他人の心をつかむのか、ライブを見たりバンド活動をする中で、僭越ながら自分の中で考えていた。

紛れもなく、一番必要なのは「習熟」、上手くなることであろう。というかこれは前提条件だ。どんなに魅せたいものが演者にあっても、ぐちゃぐちゃな漫才、ぐちゃぐちゃな演奏では伝わらない。上手くなるために練習をする。これは、漫才をする人、音楽をする人なら当然のように通る道である。

しかし、ここで陥ってしまいがちなのが、”上手さ”への依存だ。上手さは、必要条件であって十分条件ではない。上手ければ上手いほど人の心を動かすのかといえば必ずしもそうではないし、上手さはそこそこでも心を動かすステージは確かにある(程度は人によるが)。上手さが全てを解決してくれると信じ練習に励むが、それだけで評価をされるとは限らない。今まで自分はこれをピタッと言葉にすることが出来なかったが、”上手さ”とは別の次元にある「いい演奏」を何度も体感し、その理由を考えていた。

(ここでの演奏とは主に自分の周りのバンドサークルにおける話である。プロの漫才と、アマチュアのバンドを比較してしまって申し訳ないが、あくまでこれは私の備忘録なので。プロの演奏はみな一様に素晴らしく、私が偉そうに言えた話ではない。以下、バンドサークルに絞って話を進めていく。)

 

M-1決勝での、「初出場のからし蓮根が褒められ決勝常連の和牛に物足りなさを感じる」という構図に私は既視感を覚えていた。バンドサークルにおいても、まだ楽器の習熟という点において劣る下級生が(これは例えであり演奏の習熟度と学年は決してイコールではない)、全力をかけて「今、自分は楽しい」ということを演奏で表現する姿に私は心を動かされることがある。一方、楽器の実力が確かである上級生が、何か演奏をする目的意識を失ったような姿でルーティンのようにライブをこなす様子は時々見受けられるが、これは演奏の上手さに「流石だな」と思うことはあっても、何か退屈さを感じる。

繰り返すが、和牛にやる気がなかったと言いたいわけではない。彼らが裏でどんな努力を重ねているか、どんな想いでM-1に臨んでいるか、一視聴者でしかない私が知ったように話すのは傲慢であるし、これだけ毎年結果を残しているコンビなのだから当然M-1に懸けるものも相当なはずだ。これは只の私の好き勝手な感想であり、最終的に言いたいことはあくまでもバンドの話だ。

 

この「慣れ」故の「物足りなさ」の話は、何も他者に対して一方的に批判の目を向けているわけではない。むしろ、自戒の意味が大半だ。昨年、私はあるサークルの最上級生バンドに誘われ、同じメンバーで8か月間演奏をしていた。そのバンドは様々な大学から人の集まる”しっかりした”バンドであり、バンドにありがちな意思決定の方法やらモチベの違いによるストレスを感じることもなく、楽しく演奏をさせて頂いていた。最初こそ初対面の方も多く緊張していたが、次第にそれもほぐれ、時にはサークルの看板を背負うバンドとして色々と経験することが出来た。

そんな中で自分なりに(個人として力不足を感じることはあっても)活動には満足していたが、自分が加入して半年ほど経った頃にある話を聞いた。そのバンドはメンバーが1年生のころから計2年半活動していたのであったが、その様子をずっと見てきたサークルOBの方々が、「最近のあのバンドは演奏を”こなして”いるよね」といった感想を持っていたそうだ。

加入から半年、確かに自分の中でいい意味での緊張感を失っている部分があった。毎度サークルのライブのトリを担うバンドということで最初は気負う部分があったが、その初心を忘れていた。バンド全体として演奏が”こなして”いるように見えたのは、元々自分の演奏の実力としてあまり派手なことが出来ないプレイであるために前任者と比べ見劣りするという部分も大いに関係していただろうが、それでも出来ることを自分なりに突き詰めるという姿勢が当時欠けていたのかもしれない。様々なライブを大きな失敗もなくくぐり抜けた中で、どこか「このくらいの演奏をしていれば見てくれる人も満足してくれるだろう」という弛みが自分にあった。その後、この”こなしている感”を打破しようということを仲間と確認し、残りの活動期間はそのOBの言葉を頭の片隅において過ごしていた。本当に”こなしている感”が払拭されていたかどうか、これは観客の心中にしか答えがないので私には分からないが、ともかくこの”こなす”という言葉は私の中にしばらくひっかかっていた。

 

 

”こなす”という言葉は自動詞にすると”こなれる”であるが、これらは原義的には決してネガティブなものではない。こなれた文章、こなれた服装、「こなれ感」…等、洗練されていて洒脱なものを表す言葉であり、スマートな印象を受け手に与える。ただ、”こなす”という言葉で自分たちの演奏が形容されたときに身につまされたのは、スマートな印象の裏側にある意味合いである。そつなく物事をすすめるという事は、ともすればスマートとは対極の意味合いである「泥臭さ」が見えにくいのだ。どういう想いがあって、どういう意図で演奏や漫才といったある種の{表現}をしているのか。人々が見たいのは、地を這ってでも何か自分が表現したいことを表現してやろうという気持ちではないのか。

「いい演奏」が結局何であるのか、これは一括りに文章にするのは難しい。しかし、退屈な演奏とはどのようなものか、これは”こなす”という言葉が示唆しているように思う。何のためにバンドをしているのか?何でこのバンドに参加しているのか?これらが見えてこない”こなす”演奏には、中々感情移入することが難しい。

 

こんな事を1年かけてそれとなく考えていた折、和牛の漫才と上沼審査員の発言にはハッとした。和牛の漫才は、非常に高度に”こなれて”いるのである。長台詞を完璧に言い回し、3段オチもきっちり決まり、洗練されていてどこか余裕すら感じさせる。とても上手で面白い「作品」なのであるが、M-1という舞台においては何か他のフレッシュな漫才師とは異種の空気を感じる。観客が求めているのは、必死こいて這い上がりTVスターになってやろうという芸人の迫力であったり、泥臭さだったりするのではないか。和牛にはそのような気持ちが無いという事ではなく、漫才が洗練され過ぎているが故に気持ちが”隠されて”しまい、何か物足りなさを覚えてしまったのではないか。和牛が悪い訳ではない。一視聴者の身勝手な感想として、このように考えた次第である。

だから、この私の身勝手さを上沼審査員が掬ったかのように喝破した瞬間が、物凄く痛快だった。どのような表現の世界においても、”こなしている”ようにみなされてしまうと、受け手は覚めてしまうのである。

 

今回のM-1は史上最高とも呼ばれる盛り上がりを見せたが、それは異例なまでに多い決勝初出場組が、文字通り身を削り泥臭く漫才を披露したことと無縁ではないはずだ。勿論そこで壁となり立ちふさがった和牛をはじめとする常連組も、新参vs古参のアングルを生み出し番組を盛り立てていた。皆さまお疲れさまでした。 

 

 

 

ブログことはじめ

いつもお世話になっております。

 

無味乾燥な日々を送っており、特に人様にお伝えするような事もありませんが、それでも偶に思ったことや感じたことをまとめてみたくなる時があり、twitterに3文以上のセンテンスを投下するのも無粋なので、それら 浮かんでは消える頭の中の何か の捨て場をここに作ることにしました。

備忘録みたいなもので、自分の身の丈を超えないような話、パーソナルな話ばかりになると思います。僕の知り合いの方に伝わればいいかな。

飽きたらやめます。というか、書きたいことがなければ更新はしないので、毎週やるかもしれないし、次にまとめて書くのは老後かもしれません。

 

なお、「雑記帳」というブログタイトルは高校の吹奏楽部にて毎年学祭で出していたパンフレットから来ています。お客様そっちのけで内輪な話を皆で面白おかしく書いて(いるつもりだっ)た、あの雑記帳とこのブログは多分同じです。