雑記帳

私の頭と心の中

ニヒリストも食べるニヒリスト冷麺

最近自分はニヒリストなんじゃないかという疑念に苛まれている。

 

昨日も歩いてる時にこの事を思い出し、考えが纏まらなくなった。駅近くのガードレール的な物体に腰を下ろし、目的地に着く前にケリをつけようと試みる。

考えてみれば、生きていてこれを達成しようという野望がない。今自分が満足すればそれで良い、じゃあ自分を満足させるものとは?衣食住が満たされて、これ以上何を求める?生きるためのガソリンは何?まとまらない。

 

 

座っている場所の近くを車が通った。あんな大きな物体に至近距離を走られると怖い。

〜ふと思った。生きる事に何も意味がないのなら、私は死んでも問題ないのか?あの車に轢かれてもニヒリストだから何も思わないのか?

そんな事はない。車に轢かれて死ぬのは怖い。

〜なんで?

最初に思いついたのは「痛いから」だった。ニヒリストでも"今この瞬間"に苦しい思いをする事はしたくないはずだ。快楽や苦痛は、価値観に意義を見出さない人間にだって存在する。

〜じゃあ、車に轢かれる以外の死に方なら問題ないのか?

その時に思いついたのは「痛くない死に方は無い」だった。厳密に言えば、100%苦しまないと言い切れる死に方は恐らくない。死に方に詳しくないが、どんな死に方であっても死ぬ瞬間に苦痛を感じないとは誰も断言出来ないはずだ。何故なら死んだ人にしか死ぬ時の苦しみは分からないのだから。

〜〜でもそれは、今この時点での科学の中の話であって、「死んでも問題ないか」とは全く関係がない。じゃあ思考実験として、明日「100%苦しまない死に方」が開発されたとしたらその死に方で死ぬ?

死なない。死ぬ事自体も怖い。死は不可逆。死んだ後に生きる事は出来ないから、生きている内にしか楽しめない事を楽しまなければならない。

 

この時に気づいた。"死に抗い、生を楽しむ"のも価値観の一つではないのか。価値への執着がないふりをしても、死ぬ事の恐怖、生きる事への固執はなぜか拭い去れない。ニヒリストは一体どうやって死と向き合っているのか。

 

 

、、、よく分かんないので「ニヒリズム 死」で検索した。

やっぱりよく分かんなかった。恐らく体系立った哲学書でも読んだ方がよい。検索して分かるほど甘くない。

でも代わりに面白そうなページはあった。

「死ぬのが怖い」人に贈る七つの対処法(前野 隆司) | ブルーバックス | 講談社(1/4)

筆者の著作を紹介する記事のようだが、「死ぬことが怖い」と思う感覚とニヒリズムの関係について最後の方で触れられている。

 

では、結局、「死ぬのが怖い」とはどういうことだったのか。それは本書を読んでのお楽しみだが、一言でいうと、「そう思うように人はできている」ということである。それだけ。
あらゆる他の事柄と一緒だ。物事には本質的な意味はない。何もない。答えはない。あるとしたら単なる動物という機械論。あるいは、ニヒリズム

しかしそれは悲観ではない。悲観しているうちはニヒリズムではない。楽観も悲観も超越したところにニヒリズムはある。

 

曰く、自然科学や社会科学がもたらした帰結として、死ぬのが怖いのは「死ぬのが怖いと思うように人間は出来ているから」らしい。本質的な意味もなく、「そうなっているから」というニヒリズムだ。いくら楽観や悲観を超越したニヒリズムの境地に達しようとしても、「死ぬのが怖いと思うように出来ている」と客観視しようとしても、人間が人間である事を捨て、主観を超えた客観100%の世界に達する事は出来ないのだから死への悲観は消えないのではないか?と私は思うが、ともかく筆者は死を超克するニヒリズムを勧めている。

 

 

 

 

「客観」の存在を信じていない自分には、この話があまり腑に落ちなかったので同じ検索結果から別のページを読んだ。

折れない心を育む ~「レジリエンス」の視点から~ – 京都大学 都市社会工学専攻 藤井研究室

「思春期学」と題し、大学院教授が研究室のホームページで教育について論じたもののようだ。

参考文献もいくつか示され最終的にはかなり強い口調で社会への警告を発しているが、正直に言うと読む中でとてもイライラした。

本文では現代日本に蔓延するニヒリズムこそが子供達の精神を絶望の淵へと追いやっていると論じ、「価値観の多様化」の名の下にニヒリズムに強大な権力を与えた大人たちを断罪している。そこは別に良いのだが、この「悪夢のような時代」とやらから脱却するための処方箋として、「誰一人として例外なく我々は死すべき存在なのであるという認識の下、当たり前の伝統の保守と復権,さらには、真善美を愛し、保守せんとすると同時に、偽悪醜を憎み闘う勇気と実践」することが必要と説いている。

美しきもの、正しいもの、善きものを認識し、醜いもの、偽なるもの、悪しきものを批難することを大人たちが実践するよう本文の帰結として長々と論じているが、全体的に「真善美」がはっきり一意に定まるかのような物言いが気に障る。一つの「真」、一つの「善」、一つの「美」がこの世に存在し、そうでないものは存在してはならないかのような論調だが、ポスト構造主義の本に影響されたミーハーから言わせてもらえばこの考え方が納得出来ない。答えが一つだけ存在するという思考は「他なる者」との対話を拒むという意味で独善的であり、検証可能性を封じるという意味で非科学的だ。絶えず混ざり続ける善と悪を単純に分割することは、形而上学の外(形而上学とはプラトン信奉者によるプラトン擁護のための理屈)にいる他者を無視、または抹消する態度に他ならず、このような論調は「自分の真善美」を他人に押し付けるための我田引水に他ならない。

大体、「ニヒリストであればカネも名誉も地位も限りなく喰らい尽くす」とか、「ニヒリズムの境地においては自殺や少女売春がはびこる」とか凡そそういったことが本文に書かれているが、短絡的にニヒリズムに諸悪の根源をおっかぶせすぎではないか。何故そう思ったのかと言えば、以下の記述が目に余ったからだ。

 

しかし、どれだけ彼らがニヒリズムに浸っていたとしても、彼らの精神が打算や気分や空気で満たされることはない。精神はあくまで精神であり、打算や気分とは無縁の世界で躍動し続ける「形而上的」な存在であり、それを満たすためにはニヒリストでは絶対に価値を見いだすことができない「形而上的な養分」(例えば、家族との平凡な暮らし、芸術や美しい自然との接触等)を必要とするのである。

精神を満たす栄養分として一番に出てくる例が「家族との平凡な暮らし」?結婚のアンチなのでこめかみがピキピキしてしまった。そもそもニヒリストが家族を大切にしないというのが暴論だと思うが、それはおいといて「家族と平和に暮らすのが高尚だ」などという一方的な決めつけは私は決して容認できない。筆者の思う「真善美」とやらは、やはり筆者にとってのみ都合が良い狭小なものに見えてきてしまう。「真善美」を一人一人の大人が実践すればそこには必ず価値観の相違が生まれるはずで、そこで行うべきはまず対話であり「偽悪醜を憎み闘う」なんて記述をする前にやる事がある。「ニヒリズム」という悪の秘密結社と戦うヒーローになった気分で、自分の理想を他人に押し付ける免罪符として「真善美」を利用していないか。

 

 

 

 

 

 「結婚」と「美」、いつも話題にしているワードが使われていたせいでついついピキってしまった。まあ、ここで論じられていないだけで真善美を探るための他者との対話、定義の拡張と変化は別に論じていたり、あるいは実践しているのかもしれない。アンチ結婚派としてのポジショントークに躍起になる余り支離滅裂な事を言っているのは私の方だ。

それよりも、私が気付いたのは私自身の価値観だ。"自由"や、"対話"や、"考え方を他人の決めつけで縛られないこと"を実は自分は大切にしていたじゃないか。生への執着と自由の渇望。この二つを価値判断の基準として持っているのだ。どっちかはニヒリストの定義に対する私の誤解から棄却されるかもだが、二つもあれば言い逃れできる。やっぱり私はニヒリストではなかった。やった。

 

 

気がつくと1時間半路上に居た。目的地のガストへ慌てて向かう。夏の期間限定メニュー、山芋オクラの冷麺769円。美味い。食べながらまだ考えていた。私はニヒリストじゃないから美味しいご飯が好きなのか?ニヒリストは食べるものにも興味ないのか?いや、ニヒリストこそ享楽主義だから三大欲求の一つたる食欲には拘るはずだ。

支払いはpaypayの5%割引クーポンを使う。私はニヒリストじゃないから割引が好きなのか?割引が好きと言うことはお金に執着しているから虚無主義ではないのか?いや、ニヒリストもお金には執着するはずだ。今を楽しむのにお金は必要だから。

 

 

やっぱりニヒリストかどうか自分を疑い続けてしまっている。

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